梅雲丹も馬油と共に、薬師院観音堂に伝承された、古代の唐僧の知恵の遺産です。雲丹と言う字は中国渡来の言葉で、栄養価の高い保存食品を、医食同源の漢方思想が主流であった古代中国では薬と見なし、それを《雲丹》と称していたようです。雲丹よりも格式の高い最高秘薬は《仙丹》と言いましたが、これは人間界では入手できぬ《神仙の妙薬》とされています。

日本に雲丹の名称が伝えられた後、武家政権が起こった頃から、武士が戦場に携帯する《戦時栄養食》を雲丹と言うようになり、原料は鳥の肝や卵を持った沢蟹や海胆などで、いずれも塩漬干燥して摺り潰し、丸薬ふうに仕上げられていました。

古い由緒ある神社で栄えている門前町などには、昭和時代まで《雲丹》が名物として残され、珍味、酒の肴として通人に賞味されていました。色々の原料が使われましたが、共通している事は総て”栄養価の高い保存食品”だった事で、武士の戦場携帯の習慣が無くなった江戸時代からは、通人の高級珍味だけでなく、労咳患者(結核)の療養食としても珍重されました。

明治以後、西洋医薬が移入されると、雲丹は次第に廃れて、その中の海胆が《雲丹(うに)》と書かれて、雲丹の字を独占するようになりました。筑前の太宰府、筑紫野地方には、前述の古代中国僧の伝承で、梅で作った雲丹(薬用食)として《梅雲丹》が伝わっており、殆どが寺院に伝承されました。
神社でも作り伝えた所がありますが、これは古代の神仏混淆の時に移ったのでしょうか。一部の神社では、梅雲丹と言わずに《天神様》と言い、寺院製の物と区別しています。

太宰府天満宮は庶民の信仰で栄えて来た神社ですが、ここでは《梅核》を天神様と称して大切にしましたので、多くの庶民の間に拡がり、梅核すなわち天神様の意識が広く現存しています。
《梅雲丹》は、確かに梅核(梅の種子の中の芯)を必須原料とする薬用食品でしたが、神社製のものを天神様と呼んだことも、梅核の貴重さが原因でしょう。

著者は、序文の中に述べたように、再建した山寺(薬師院)に伝承した初代唐僧の知恵《馬油》と《梅雲丹》を、再現復活させる研究製造企業を創業し、詳細は殆ど不明になっていた言い伝えを組み立て編み直して、どうにか『こんなものだったに違いない』と確信が持てる《梅雲丹》ができたのは、研究を始めて十年も経った頃でした。なぜ確信が持てたかと言うと、言い伝えられた通りの”不思議な効力”を発揮し始めたからです。

梅雲丹の効能は、科学万能の宇宙時代の医薬にも無い独創的な効能でしたから、その噂は数年の中に日本中に拡まり、全国の一流デパートの諸国名産コーナーでも、福岡県の名物として好評定着し、特に福岡県主催や九州各県共催の物産展が東京都内のデパートで開催されると、売台一台当たりの売り上げは日本一と言われ、五〜六年間は、売り上げの王座を維持していました。

○○病が治る・・・とか、△△病に効く・・・とかの、誇大宣伝じみた健康食品とは違って、『野菜嫌いの偏食児童が、この一びんで食べものの好き嫌いをしなくなりますよ。』と言う宣伝文句が《はったり》ではなく、愛用者のデパートの上流客が売り場まで押しかけられて、『本当なんですよ、それはもう・・・』と応援してくださる状況で、お客がお客に宣伝されて売り拡がって行ったのです。バランスのとれた食事をすると、食事療法で色んな成人病が治る事は、現在は常識のように医者でも話していますが、梅雲丹はその嚆矢(こうし)だったと言えるでしょう。

『梅雲丹が宣伝販売されると、他の健康食品が売れなくなる。』と言う噂が、同業者の間で妬みを含んで囁かれ出したのを仄聞したのは、昭和五十年代の終わり頃でした。

九州の片田舎の中小企業が、日本の首都で有頂天になっている!・・・・・そんな評判を気にも留めなかったのは、全く私が経済人としての素質に乏しく、商人としての知恵もなく、人間の徳の修行を怠っていたからです。
昭和五十九年、どこの誰が画策したのか、(有)筑紫野物産研究所の撲滅作戦が展開され始めました。

先ず脱税の密告でした。
嘘でも構いませんから実に本当らしく『あの会社は脱税していますよ』と密告すると、とに角突然の調査をされます。忙しい会社ほど、経理は或る程度杜撰になり、決算時に辻つま合わせをしたりしますし、複雑な税法の隅々まで百点満点に精励できるのは、相当に企業が安定して来ぬと、仲々できないことです。特に、脱税意識がある訳ではないのに、技術的な仕事に熱中するタイプの経営者が、往々にして陥る欠点です。
根掘り葉掘りの高圧的な調査に腹を立てた私が、この屁理屈役人共めと反抗態度をとったので、修正すればよいミスまで”脱税”の折紙をつけられ、ほとほと閉口いたしました。しかし、金銭的なトラブルは私のような人間には致命的なことではなく、税務官も終りには私の性格が解って来て同情的にもなり、間もなく終結したのですが・・・・。

一番不気味だったのは、だれかに脱税していると密告されていたことです。税務調査が終わった頃、『(有)筑紫野物産研究所が薬事法違反をしている。』と言う告発が、全国あちこちから次々と当局に出され、その言い訳申し開きに四苦八苦する日が続きました。特に検挙までされるような悪質な違反はしたこともないので、何とかお説教程度で納ったのですが、この頃には、これら一連の仕掛人の影が、正体不明のまま確かな存在感になって参りました。

そして最後に、筑紫野物産の倒産閉鎖間違いなしと噂された大打撃に襲われたのは、昭和六十年の晩秋の頃でした。

『(有)筑紫野物産研究所が製造する梅核の中には多量の遊離シアンが含まれている』こういう記事が、一流の経済新聞社の社会面(一番読まれる”三面記事”と言われる所)に、二十糎平方もの広い紙面で、三日連続で報道されました。余りの騒ぎの大きさに、他の一流新聞も三日目には皆んな記事にしましたが、メーカーに取材に来た新聞社は一社のみ、それも大変な詰問調の取材、まるで犯人扱いでした。

梅雲丹は、前述したように《梅核》を必須原料とする食品です。梅の果肉だけでなく、種子が大きい《苦が梅》を使って、その種子の核仁を果肉と一緒に摺りつぶしてあります。その梅核に多量の遊離シアンが含まれているので危険であるという記事なのです。
そして、遊離シアン(シアン化水素)と書き、シアン化水素の猛毒性を説明し、『酸っぱい梅雲丹は、一度に多量に食べる物ではないので、今の所被害者は出ていない。』と結んでありました。
この記事の大部分は本当の事ですが、一番大本が嘘ですから、結局は全部が嘘の記事と断定せざるを得ません。梅核に遊離シアンが多量に含まれているのは事実ですが、遊離シアンはは天然の自然物で毒ではないからです。

遊離と言う言葉は化学用語で、次に来る物質が何物とも化合していない純粋の物である事を、強調するときに付ける冠頭詞です。シアン化水素は『シアンと水素の化合物』、シアン化カリ(青酸カリ)は、『シアンとカリの化合物』で、遊離シアンではありません。
新聞社は、梅核の遊離シアンを、シアン化水素や青酸カリの毒性にだぶらせて、猛毒危険と決めつけた訳です。※炭素(C)も酸素(O)も毒ではないのに、化合すると一酸化炭素(CO)と言う毒になります。

無知にも程があり、まるで小学生が『マイナスの数』を理解していない程度の、初歩的知能欠陥で、話になりません。一番困った事は、日本政府がまだ《遊離シアン》が毒か毒でないかの、確っきりした研究をしていない事でした。
『純粋のシアンでも、もしカリュームと化合すれば直ちに青酸カリになる危険性がある訳で、危険を事前に予防するのが、行政指導ではないか。』と、所轄官庁にくい下がるマスコミを持て余したお役人は『とに角暫らく製造を自粛してくれ』などといいますし、『遊離シアンが毒だと確っきり証明して下されば、勿論自粛いたします。』と突っぱねた私は、完全な村八分にされてしまいました。

《遊離シアン》を含有しているのは天然の植物で、多くの野菜に含まれているのです。
遊離シアンが、もし猛毒ならば、野菜を食べたら即死せねばなりません。一日に煙草を二十本も喫んだら、遊離シアンで昇天せねば、辻つまが合わなくなります。

『新聞が書いた記事は嘘です。』と、私が対抗して広告するとしたら、一千億円はかかるだろう、と或る人が言いました。『政府が間もなく遊離シアンの毒性について公表するから、それまで待つように。』と言うのが、所轄官庁のご指導でした。
もっとも梅雲丹は何度も検査されましたが、遊離シアンが”大根の五分の一”の微量しか入っていないので、営業は差し支えなしと、間もなく口頭で許可されました。
一流の全国紙で非難されたものを、地方の役所が口頭で『続けて良ろしい』と言ったって、どうなるものでもありません。

丸一ヶ月間、八本の電話は鳴りっぱなしで、それまでの全国の梅雲丹の愛好者の九十%位が、愛用を止められただけではなく、批難ごうごう、その中に、『筑紫野物産は倒産しました。』と言う噂が、ライバル企業から意識的に宣伝され、その後一年近くは売り上げどころか、梅雲丹は返品精算だけの有様でした。

『やっぱり梅雲丹は素晴らしい!』
と言う声が、ちらちらと耳にされるようになったのは、丸二年も過ぎた頃からです。それまで(有)筑紫野物産を支えて来たのは、もう一つの製品《馬油》の圧倒的人気でしたが、毎月十万個も出荷される馬油の中には、梅雲丹の宣伝記事が必ず載せられて、瀕死の重病人が奇蹟的に恢復するように、次第に復活して行ったのです。

しかし、梅雲丹復活の原動力になったのは、梅雲丹で食事療法をして、医者から不治と言われていた成人病から立ち直った愛用者の親身の応援でした。馬油はいくら素晴らしいと言っても、命まで救うような奇跡は起こしませんが、梅雲丹は、生命の危機に晒された人を救うことがあるのです。

本当に良い物は、誰がどんな妨害をしても決して消滅することはないと、つくづく感心いたしますが、それにしても人間と言う高等動物は、知能だけは超動物的に秀でていますが、獲物を争う動物的闘争心も持っていますから、他人を蹴落としてでも儲けてやろうと考える商人は多く、それらの人種は悪知恵の限りを尽くします。私は、そんな悪知恵で他人を食い殺してまで事業に成功したいとは思いませんが、食い殺されるのは真平ご免で、これからはしっかり防御を心掛ける積もりですし、防御方法の第一は、何と言っても信用される徳を修める事かと反省するばかりでした。

遊離シアンが毒か毒でないか、もしも毒ならばどの程度でどんな毒性作用を出すのか、それを厚生省が発表してくれるのを、もう丸四年越し待っているのですが、何かウヤムヤに終わったらしく、未だに何の発表もありません。それは、余りにも多くの野菜や果物に遊離シアンが入っているので、これを毒と想定して研究すること自体が、馬鹿らしくなって来たのでしょう。
遊離シアンを毒だと書き立てた某経済新聞の社長さんは、仏罰が当たったのか、昨年発覚した日本の上層階級の株式経済事件に関連して、とうとう社長の座を降りました。私も、四年前に社長を辞め、一介の野人になったのですから、まあ五分と五分と言う所でしょうが、一庶民になった私には、全国にまだ何万人もの支持応援者がおられます。